「神の御手の中へ」  04.11.21
               ルカ20:41〜21:4

 イエスさまは、神殿でレプトン銅貨二枚をささげていた婦人に目を
お止めになります。それは、思い悩みから解き放たれて、神さまの
御手の中に自分を明け渡しているやもめでした。イエスさまは、
「このやもめの姿をご覧」とおっしゃいます。

 教会は、このやもめの姿から、多くのことを聞き取ってきました。
金持ちの献げ物に比べれば、やもめのささげ物は僅かでした。
 しかし、やもめには、金持ちがささげることよりもずっと大変な決意が
必要であったに違いありません。決意がささげ物を輝かせました。
 賽銭箱に沢山の硬貨が入れられた時には、大きな音が鳴り響きました。
二枚の銅貨が出す音は小さかったでしょう。
 しかし、イエスさまは、その小さなささげ物を見逃しはされず、お喜びに
なってくださいます。
 「全部を入れた」とおっしゃいます。ささげた額よりも手元に残す額を
ご覧になります。
 それゆえに、手元に残すものがないやもめのささげ物は、尊いのです。
 この賽銭箱は、貧しい者への施し用だと言われることがあります。
 そうであれば、自分が施しを受ける立場であるにもかかわらず、人の
ためにささげたということです。やもめは、神さまが自分を生かして下さる
ことを信じるがゆえに、人を生かす愛のこもったささげ物をすることに、
心を向けることが出来ました。

 神さまの御手にすべてを委ねていることが、やもめの基本姿勢です。
やもめは、「小さくても良い」とか「手元に残さない方が良い」とか考えて
いたのではないでしょう。ただ、神の御手に身を明け渡しただけです。
 それによって、思い悩みから自由になり、自分の小ささに縮こまって
生きる所からも、持ち物に振り回される所からも自由になります。
 そこに、主が喜ばれる生き方が生まれ、さらに私たちの心を動かす
姿が生まれます。
 
律法学者は、人の評価に自分の身を委ねて生きていました。
そこに生まれるのは、自由ではなく不安です。
 律法学者のようになる私たちに、主は「やもめの姿をご覧」と
おっしゃってくださいます。